顕彰事業

第19回表彰 授賞式の模様:亀田誠治氏受賞挨拶

どうもありがとうございます。
ご紹介にあずかりました、亀田誠治です。
渡辺晋賞、この栄えある賞、光栄な賞をいただき、心から嬉しく思っております。
僕は昭和39年、1964年、前の東京オリンピックの年に生まれたんですけれども、あのキラキラした時代からギフトをたくさんいただいたんです。今でも、人生でいろいろなことがありますよね、そういうとき「シャボン玉ホリデー」や「無責任シリーズ」や「日本一シリーズ」を見てスカッとした気持ちになって、また次の日から頑張れるエネルギーをもらっています。必ずそうやって見る作品の中に渡邊晋さんのお名前と渡辺プロダクションのお名前がありました。テレビの黎明期にお茶の間に喜びと活力を与え、そしてアーティスト、作家、ものをつくる側の人たちを権利で守っていくという新しい仕組みをつくられた渡邊晋さんという方、これこそが本当のプロデューサー、プロデュース能力なんじゃないのかなというふうにいつも目標にしてきました。僕も晋さんと同じくベーシストです。一生懸命勉強しましたし、練習しました。一番目立たない楽器だとは思っていないんですけれども、、、今でもベースプレーヤーとしてステージに立っています。
僕が仕事を始めた1990年頃、まだ音楽業界にはバブルの余韻が残っていまして、めちゃくちゃ余裕があって、おおらかな空気の中で音楽がつくられていました。そういう中、僕は本当に駆け出しの作曲家、アレンジャー、そしてベーシストだったんですけれども、そのおおらかな空気の中でたくさんのチャンスを、ここにお集まりの皆さんもそうですけれども、先輩方にたくさんチャンスを与えていただきました。普段だったらば「アレンジを任せるにはまだ若すぎるんじゃないか。」とか、そう思われてもしょうがない年ごろではあったんですけれども、時代のおおらかさで、予算の制限とかも言われたことがなかったです。「こういうふうに録りたいなあ。」と思ったらその通りにレコーディングさせていただけるキャリアの出発点をいただけたということは、本当に幸せなことだと思っています。そうやって自分のやりたいことを積み重ねていくうちに、だんだん作曲家、アレンジャーから音楽プロデューサーと呼ばれるようになってきました。

1990年代の終わりに、椎名林檎さんと出会います。ここが僕の大きな転機となりました。椎名林檎さん、まずどういうかたちで彼女のプロデュースに加わったかと言いますと、当時のレコードメーカーの方から電話がかかってきて、「まだ10代の素晴らしいシンガーソングライターがいる。女の子だ。ところが、今までに聞いたことのないようなメロディー、文語調の歌詞、サウンドもとんがっていて、本人が言っていることをみんなが理解してついていくのが大変で、どう導いていいかわからない。だけど亀ちゃんだったらその人柄で彼女に向き合ってくれる。と思って。」人柄かい!と思って。音楽性とかじゃないんですか。と思いましたが、、、ズルッてずっこけたんですけど、林檎さんと一緒にそこで初めて作品を作り始めます。2人で一緒に作った2枚のアルバムが両方ともミリオン、そしてダブルミリオンを記録し、僕も名実ともに音楽プロデューサーという肩書になることができたと思います。
本当に音楽って面白いもので、渡邊晋さんがおっしゃっていたように、国境とか言葉とかがないんですよ。ジャンルも。R&Bを歌っている平井堅さんが林檎さんのあの歌の魂を引き出している亀田さんに音楽プロデュースをしてもらいたい。と言ってオファーが来たり、あとは、スピッツの草野マサムネさんから、椎名林檎さんの尖ったサウンドと同時に、チェキッ娘とか深田恭子さんとかアイドルものもアレンジしている、亀田さんのポップセンスと一緒に僕たちはアルバムをつくってみたい。というようなかたちで、どんどんどんどん新しいアーティストと出会い、僕の仕事の活躍の場は広がっていきました。

でももしかしたらそのうちの9割9分は音楽性というよりも「亀ちゃん、人柄!」というところで広がっていったかもしれないですけれども、そうやってたくさんのアーティストと知り合うことができて、そして必然的にたくさんの作品を世の中に出していくと、打席に立つ回数が増えると、ヒットを出す確率も上がっていき、たくさんのヒット曲が生まれていくようになりました。

そうやって90年代2000年代、本当にたくさんの音楽をたくさんのアーティストと一緒につくっていく僕なんですけれども。今から10年ほど前、ちょうど50歳になったくらいの頃、ふらり訪れたニューヨークのセントラルパークで、風に乗ってとっても素敵な音楽が流れてきたんですよ。そしてその風上に向かって行列ができている。それで「これはなんなんだ?」と聞いたらば、「セイジ、お前は知らないのか。ニューヨークでは、ひと夏フリーコンサートが行われているんだ。誰でも並べばその日好きなアーティストの音楽が聴けるんだ。」そしてたくさんの人が、ニューヨークですからいろんな人種の方、アジア系もいればアフリカ系の方もいる、おじいちゃんおばあちゃんもいれば、子連れのカップルがベビーカーを押して列に並んでいたりする。そういうふうにたくさんの人たちが昼間公園で1日ゆったり思い思いの1日を過ごして、自分の好きな音楽に浸りに行く。なんて素敵な文化なんだろうと思ったんですね。これをいつか日本でやりたい。東京でやってみたい。と思って、日本に帰ってきました。これが僕が始めた日比谷音楽祭のきっかけです。そのニューヨークで僕がみたフリーコンサートは、すべてが寄付金と企業からのスポンサードされたお金、そして行政からのお金でつくられているというお話を聞いたときに、こんなことが日本でできるといいなあ!と思いました。そしたら諸先輩方も「亀ちゃん、無理しない方がいい。」と、「東京の真ん中で、亀ちゃんだから有名なアーティストいっぱい集められるけど、そんなに大きなフリーコンサートをサスティナブルに続けられるわけがない。亀ちゃんが他にやりたいことをやれなくなるよ。」みたいな忠告、アドバイスもたくさん受けました。でも僕は、ニューヨークでみたあの景色が、ニューヨークで出来て日本で出来ないわけがないと思って。僕は大学卒業してすぐバンドマンになったので、就職活動みたいなことをやってきてないんですよ。なので、リクルート経験がないんですが、そんな僕が50歳になってリクルートスーツを3着新調しましてですね。七五三みたくなっちゃうんですけど僕が着ると、、、そして企業のトップの方や広報の方に自らアポを取って、協賛、スポンサーのお願い、そして僕は「音楽文化を広げていきたい。垣根無く音楽を伝えていきたいために、フリーコンサートを東京の真ん中の日比谷公園を使ってやりたいんです。」という説明を何度も何度もしました。助成金をいただきに、助成金の申請書、行政の申請書ってなんであんなに書く欄が小さいんでしょうね、お米に豆粒のような字を入れるようにいっぱいいろんなことを書いて、自分の目標を書いて、『社会のため、人々の心を癒していくために音楽が必要です。そのためにフリーコンサートをやりたいので、助成金をお願いできませんか。』というような申請書を書き、(今は)こうやってみなさんは優しい顔で僕の話を聞いてくれますけれども、厳しい顔をした、いわゆる有識者の前でスピーチをするんですよ。そして5分経つとチーンて鐘が鳴っちゃうわけです。その5分の中で、「自分のやりたい思い、次世代のため、そして日本の音楽文化のために僕はこういうことをやりたい、、」ということを時間いっぱいスピーチして、なんとか助成金もいただくことができました。そして日比谷音楽祭が2019年度に第1回目を開催することができて、10万人の観客を集め、1億円以上の協賛金を集めて大成功に収めたんですけれども、2020年にはコロナが襲い、本当に音楽業界全体が困難な状況の中、ラジオで配信。翌年2021年は無観客で生配信で開催したりとか様々な工夫を重ねながら、日比谷音楽祭を続けてきました。3年前の2022年から有観客でできるようになり、2023年去年はフルで開催でき、とても大きな進化をしている手ごたえを得ています。
僕がこの無料の音楽フェスをやりたいっていうのは、この感動体験をとにかく一人でも多くの人に、敷居をできるだけ下げて、トップアーティストの奏でる音楽、良質な楽器演奏を聴いてもらって、楽器体験、音楽体験をして、無料で感動することによって、すべての人にチャンスを与えて。でもそこから先、作品を買いに行ったり、コンサートに行ったり、楽器を習ってみたり、様々な形でもしくは自分が感動体験したことによって、将来は音楽業界で働いてみたいという気持ちになるかもしれない。そういった様々な思いを込めての無料開催です。

音楽を無料にしようということではなく、そこで新しい経済の循環を生むために、今まで音楽業界の中だけで頑張ってきていたこの音楽ビジネスを、外から企業様であったり、海外で僕が見てきたお金を稼いでいる人が寄付として社会のために、人々のためにお金を使っていく、その一つの出口として音楽文化というものを根付かせていきたい。という思いで無料開催をして、本当にたくさんの人の力を借りながら、ここまで来ております。渡辺晋賞をいただき、ようやく認められてきて、日比谷音楽祭も滑走路まで来て、あとは本当に飛び立っていくばかりだなという気持ちです。こうやって新しいお金の循環ができるということは、すごく重要なことで、若い新しい世代に作品をつくったり、コンサートをしたり、制作をしたいという意欲を与える、モチベーションを与えるきっかけがまず生まれます。それから今日お集まりの皆さんもそうなんですけれども、僕たちが音楽ができているのは、皆さん先輩の方たち、先輩のアーティスト、そして晋さんのような先輩のプロデューサーたちがけもの道を今まで誰も切り開かなかった日本の音楽業界の中で、芸能界の中で、音楽の表現がとこしえに続く、こうやってけもの道を開いてきてくれたおかげ、その先輩たちにもまだまだ音楽をつくり、音楽を演奏する場所というものを僕は作っていきたいと思っています。ということで、音楽業界はもちろん、僕ら自身も頑張るんですけれども、一般の企業、社会全体が音楽文化に心を開いて応援して、次世代の音楽文化をつくっていくことがとても大事なことだと思っています。

今年、渡辺晋賞を受賞できたことを本当に嬉しく思っています。僕の受賞が何年か振りの音楽業界からの、そしてミュージシャンの受賞だということを聞いて、ちょっと自分も嬉しい気持ちになっております。本当にこの受賞を心から嬉しく思っております。
そしてもう一つ申し上げたいのは、今日こうやって栄えある渡辺晋賞をいただき、華やかなお祝いをしていただいておりますけれども、プロデューサー亀田誠治は僕一人では出来上がっていません。妻、家族、そしてスタッフ、大好きなミュージシャン、そして先輩たち、アーティストの皆さん。本当に僕はいつも家に帰ると愛すべき音楽業界、僕はこの音楽業界のために頑張りたいって、ずっと言い続けてきています。そういう皆さんの力があって、亀田誠治のプロデュースは発揮されております。なので、本当に音楽全部に全体に皆さんに感謝と恩返しの気持ちを込めて、今日はこの渡辺晋賞を謹んで受けたいと思っております。
本当に今日はありがとうございました。

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